『定本坂口安吾全集〈第7巻〉 (1967年)』の中に、「呉清源観戦記」というのがある。元々は『読売新聞』昭和23年7月8日付に掲載されたものらしい。印象に残った事をいくつか記しておきたい。
1:璽光尊(じこうそん)のこと
呉清源だけでなく、あの大横綱・双葉山も信じていたと言われる新興宗教の教祖様、璽光尊。安吾は文中、この人物を「ジコーサマ」と呼んでいる。
「呉清源観戦記」は、呉清源と岩本薫の十番碁のとある一局の観戦記であるが、以下のように書いている。
ジコーサマの一行が呉氏応援に上京し、呉氏の宿所へ、すみこんだ。すみこむだけならよかったのだが、即ち、即ち、これ宗教なり、よってオイノリをやる、一日中、やるのである。宿所のオヤジ、カンシャクを起こして告訴に及ぶ。哀れ、神様及びそのケン族は、警察に留置さる。呉氏、慌てふためき、これをもらい下げる。時に対局2日前の夜也。
呉清源が十番碁を勝ち抜いた要因として、その棋力の他に、「十番碁に集中できた」「読売の専属棋士だったので、生活に困ることがなかった」ということが言われることがある。それらの要因があったとしても、璽光尊のおかげで呉清源氏は必要以上に忙しくなったこともあったろうし、使わずともすんだエネルギーを使ったことも多かったろう。
宗教にのめり込んだのは呉清源の自由であり選択であり、自己責任なのだろうが、「呉清源が十番碁に集中できた」というのは、いささか割り引いた方が良いのではないかと思った。
2:呉清源と名人
安吾はこう書いている。
(十番碁は)実質的に、名人戦である。呉氏が勝つや、囲碁第一人者は、中国へうつる。これが日本の棋界は怖くて、名人戦がやりにくかったのかもしれないが、そんな狭いケツの穴ではいけない。
↑安吾はこのように書いている。もちろん、みんながみんな「呉清源名人」の出現を嫌がっていたわけではなかろう。しかし、「名人を外国人にもっていかれてたまるか」という心情を持っていた囲碁ファン・囲碁関係者もまた、一定の割合でいたのではなかろうか。
1933年に本因坊秀哉と呉清源が記念対局をしたとき、秀哉が「160の妙手」で呉清源を撃退した。「160の妙手」は秀哉本人が考え出したのかそれとも弟子が見つけたのかはわからない(個人的には秀哉一門が総出で研究して見つけたのだと思っている)。
ただ、秀哉の相手が呉清源ではなく、日本人の木谷や橋本だったら、秀哉(及びその一門)は呉清源に対してそこまで必死に勝ちに行かなかったのではないか、と私は思う。
その3:サンマ-タイム
安吾の文をさらに紹介する。
試合開始、サンマ-タイム。九時十七分。
↑ ・・・時代を感じる。サマータイムが導入されていたのである
。私の母が言っていたが、その当時は「サマータイム」を「サンマ-タイム」と呼んでいたそうな。