【将棋】将棋世界2020年5月号から(その2):桐山先生と升田先生
『将棋世界2020年5月号』から、印象に残った記事を紹介する。
今回は桐山先生の子供の頃の話である。
桐山先生は奈良県出身である。吉野郡下市町に住んでいた。
1956年6月10日、当地の『宅田旅館』にて、升田幸三に4枚落ちで指してもらう。桐山少年はその対局で負けたようだが、升田が少年の母親に「この子が棋士を目指すのならうちに来てもいい」と言った。
今風に言えば、羽生善治が小学生に「もし棋士になりたかったら預かりますよ」と言うようなものだ。普通は喜ばしいはず・・・である。
しかし桐山少年の場合、そういう結果にはならなかった。
翌1957年4月から東京で升田の内弟子となり、杉並小学校に通うことになった。
学校の後に将棋を指すのは楽しかったようだが、問題は学校である。
奈良の田舎から東京に来た桐山少年。まず言葉が違う。標準語と関西弁である。同級生との会話が必ずしもうまく通じない。
恐らく桐山少年はおとなしくておっとりして、恥ずかしがり屋の正確だったのだろう。先生から指名されて「校歌を歌いなさい」と言われても、うまく答えることができないこともあった。
桐山少年にとってはつらい小学校生活である。結局1学期の終わりに升田の弟子をやめることになる。
今風に言えば、「羽生に弟子入りしたが3カ月でやめた」みたいなもんで、今だったらネットでめちゃくちゃ話題にされていたのではなかろうか。
さて、東京を出た桐山少年、今さら奈良県に今更帰るわけにもいかず、大阪に住む母親の妹(要するに、桐山少年の叔母)の家に住むことになった。そこでは桐山少年は学校に行きながら放課後には難波の将棋クラブで将棋を指して楽しく過ごしたようである。
その後父親の尽力により、関西在住の棋士・増田敬三の弟子となることができた。升田の元を離れて棋士への道が再び開かれたのであった。
自分も引っ越した多かったので、桐山少年のつらさは多少想像できる。
知り合いのいない学校で、一から人間関係を作らなければならない。
そして言葉が違うとかなり大変である。意思の疎通がとれないこともあるかもしれないが、それ以上に方言が違うとそれをからかう人も出てくる。
私の場合、関西から広島に引っ越した時、けっこうこれがあった。周りは悪気はないんだろうけど、関西弁を笑われたりからかわれたりしてつらいこともたまに(?)あった。
将棋世界の記事では書かれていないけど、桐山少年、東京では言葉の事でクラスメートにからかわれたこともあったかもしれない(あくまで私個人の推測であるが)。
しかも桐山少年の場合、家に帰っても家族がいない。精神的にいろいろつらかっただろうと思う。
結局は大阪で良い師匠に巡り合い、そして棋士になることが出来たのだから、ともかくめでたしめでたし、といったところであろうか。
最後に、イタリアでのコロナウィルスの感染者についての表を紹介する。
(4月11日17時時点での数字である)
4月11日17時時点での累計検査数は「963,473人」である。